● 藤間蘇女丸の写真館

■ 長唄「鷺娘」
■ 長唄「鷺娘」

◆国立大劇場 「藤葉会」 「藤盛会」  ◆熊本県立大劇場 「勘蘇女会」 にて


■ 清元 「 幻お七 」  2000年

■ 清元「幻お七」
■ 清元「幻お七」

◆ 藤間秀嘉師が主催する 「藤葉会」

 国立大劇場にて、「幻お七」、「近江のお兼」、
「子守」、「清元お夏」、「操り三番叟」「折紙」を
踊らせていただきました写真です。
上京後、熊本の勘蘇女先生に紹介頂き、
今もなお習い続けている「藤間秀嘉先生」は、
踊りの全てを知ってる先生です。
厳しいながらも、とても楽しくお稽古続けさせて
頂いており、感謝の言葉が絶えません。
何より、私は秀嘉先生の踊りが日本一大好き!
こんなに踊りの素晴らしさ、楽しさを知り、愛し、
それを伝えることができるのは、
秀嘉先生の〝おどり〟〝教え〟のお陰です。
私も、秀嘉先生の踊りに少しでも近づけるよう
精進し、先生のように厳しく、優しい、素敵な
先生になりたいと思っております。

■ 長唄 「 鷺娘 」  1992年
◆ 藤間勘蘇女師が主催する 「勘蘇女会」

 熊本県立大劇場にて、「団十郎娘」、「鷺娘」、
「角兵衛」を踊らせていただきました写真です。
私の生まれ故郷、熊本の「藤間勘蘇女先生」は、
先生の中の先生です。
踊り以外にも、掃除の仕方、料理、洗濯、
身だしなみ、礼儀・・・私をまるで親心のように
育ててくださいました。
ある時期、進路に悩んでいた時、
「あなたは踊りの為に生まれた人だから・・・」と
ふと声を掛けてくださり、その言葉だけを信じ、
今に至ります。
私の踊りに対する原点と情熱、生き方の基盤は
何より、勘蘇女先生の〝生き様〟にあります。
今の私が在りますのは、先生方のお陰です。

■ 長唄「鷺娘」
■ 長唄「鷺娘」


■清元「幻お七」:江戸時代の実話を舞踊化したものです。お七の生家は、本郷で有数の八百屋でした。天和の大火(本郷から駒込〜日本橋と焼きつくし、隅田川を超えて深川までおよび、翌日になってようやく鎮火)で、お七の家が焼け、駒込の吉祥寺に避難中、寺の小姓〝佐兵衛〟と恋仲となったお七。佐兵衛の手にトゲがささり、そのトゲをお七が取ってあげたのが恋の始まりだった。やがて家は再建され、実家に戻ることになったが、お七は佐兵衛に会えなくなってしまい・・・また火事になれば、佐兵衛に会える!という幼く浅はかな行動で付け火をしてしまったのです・・・。当時〝火事と喧嘩は江戸の花〟という言葉が残るほど、日本の江戸時代は頻繁に大火が勃発。原因としては放火が多く記録されており、動機は様々でしたが、捕えられた放火犯は罪が重く、見せしめとして、市中引き回しの上で火刑にされ、お七も、鈴の森の処刑場で処せられたのでした・・・16歳という若さでした。お七の一途な悲恋は、その後、近松門左衛門の「浄瑠璃」、井原西鶴「好色五人女」、鶴屋南北「敵討櫓太鼓」で題材として取り上げられ、今も名を残す。お七のお墓は、文京区白山の円乗寺というお寺で、ひっそりと供養されています。どうか、来生では恋が実りますようにと祈る若い女性が多く訪れるそうです。
■清元「幻お七」:江戸時代の実話を舞踊化したものです。お七の生家は、本郷で有数の八百屋でした。天和の大火(本郷から駒込〜日本橋と焼きつくし、隅田川を超えて深川までおよび、翌日になってようやく鎮火)で、お七の家が焼け、駒込の吉祥寺に避難中、寺の小姓〝佐兵衛〟と恋仲となったお七。佐兵衛の手にトゲがささり、そのトゲをお七が取ってあげたのが恋の始まりだった。やがて家は再建され、実家に戻ることになったが、お七は佐兵衛に会えなくなってしまい・・・また火事になれば、佐兵衛に会える!という幼く浅はかな行動で付け火をしてしまったのです・・・。当時〝火事と喧嘩は江戸の花〟という言葉が残るほど、日本の江戸時代は頻繁に大火が勃発。原因としては放火が多く記録されており、動機は様々でしたが、捕えられた放火犯は罪が重く、見せしめとして、市中引き回しの上で火刑にされ、お七も、鈴の森の処刑場で処せられたのでした・・・16歳という若さでした。お七の一途な悲恋は、その後、近松門左衛門の「浄瑠璃」、井原西鶴「好色五人女」、鶴屋南北「敵討櫓太鼓」で題材として取り上げられ、今も名を残す。お七のお墓は、文京区白山の円乗寺というお寺で、ひっそりと供養されています。どうか、来生では恋が実りますようにと祈る若い女性が多く訪れるそうです。

■長唄「鷺娘」:宝暦十二年初演。雪の積もる池辺に、白鷺が白無垢姿の娘と化しあらわれ〜一転して派手な町娘姿〜女の恋に悩む修羅場の狂いをバレエの〝瀕死の白鳥〟をまねた手法で情緒豊かに踊ります。
■長唄「鷺娘」:宝暦十二年初演。雪の積もる池辺に、白鷺が白無垢姿の娘と化しあらわれ〜一転して派手な町娘姿〜女の恋に悩む修羅場の狂いをバレエの〝瀕死の白鳥〟をまねた手法で情緒豊かに踊ります。




■ 長唄 「 源氏草子 」 1999年 

藤間流・東京支部主催 「藤盛会」にて
藤間流、若手舞踊家による企画演目に参加させて
いただきました。
〜源氏物語の世界〜を
長唄「秋の色種」の曲にあわせ、
〝若紫〟役を演じさせていただきました。
若紫は、プレイボーイ光源氏に最後まで愛された
女性です・・・。

■ 長唄 「 近江のお兼 」  2002年



■長唄「近江のお兼」:文化十年初演。琵琶湖西南岸の近江八景をテーマにした、八変化舞踊の中の一曲です。近江地方には、昔、琵琶湖で水浴びをさせていた馬が、何かに驚いて急に暴れ出し、大の男が大勢で抑えようとしたが一向に鎮まらなかったのに、一人の女性が、高下駄でその馬の手綱を踏み抑えると、馬は動けなくなって鎮まった、という〝大力女〟の伝説があります。この踊りでは、堅田の湖畔に洗濯にやって来た〝お兼〟というとても可愛らしい女の子が、実は大変な力持ちで、暴れ馬を沈めたり、大の男を相撲で打ち負かしたりと大活躍します。最後の踊り地では、高下駄でタップのようなリズムを踏みながら、長い晒をアクロバティク的に振り回し、鮮やかに踊り廻ります。凛とした〝男勝り〟な勝気さを〝健康的な色気〟で表現するのが見どころです。
■長唄「近江のお兼」:文化十年初演。琵琶湖西南岸の近江八景をテーマにした、八変化舞踊の中の一曲です。近江地方には、昔、琵琶湖で水浴びをさせていた馬が、何かに驚いて急に暴れ出し、大の男が大勢で抑えようとしたが一向に鎮まらなかったのに、一人の女性が、高下駄でその馬の手綱を踏み抑えると、馬は動けなくなって鎮まった、という〝大力女〟の伝説があります。この踊りでは、堅田の湖畔に洗濯にやって来た〝お兼〟というとても可愛らしい女の子が、実は大変な力持ちで、暴れ馬を沈めたり、大の男を相撲で打ち負かしたりと大活躍します。最後の踊り地では、高下駄でタップのようなリズムを踏みながら、長い晒をアクロバティク的に振り回し、鮮やかに踊り廻ります。凛とした〝男勝り〟な勝気さを〝健康的な色気〟で表現するのが見どころです。


■ 常盤津 「 角兵衛 」  2003年

◆角兵衛:藤間勘蘇貴さん(私の大切な熊本の同志です)
◆角兵衛:藤間勘蘇貴さん(私の大切な熊本の同志です)



■常磐津「角兵衛」:文政十一年初演。江戸市中を流して歩く越後の角兵衛と、江戸の鳥追い女。二人の遊芸人がいつしか恋仲となり・・・というあらすじ。越後出の素朴な角兵衛と、江戸っ子で粋な女芸人というまるで対照的な二人をハッキリと印象づけてこそ生きる踊りです。角兵衛の曲芸、新発田五万石(田舎節)〜女太夫の、こんなぶざまも、また嘘らしい(くどき)〜親兄弟に見放され(吉原の廓情景)〜〝オヤ、聞いたようだよ〟(セリフ)〜最後、越後の七不思議を、団扇太鼓でノリノリに踊るのが見せ場です。この様な江戸の日常風情を描いた踊りを〝風俗舞踊〟といいます。
■常磐津「角兵衛」:文政十一年初演。江戸市中を流して歩く越後の角兵衛と、江戸の鳥追い女。二人の遊芸人がいつしか恋仲となり・・・というあらすじ。越後出の素朴な角兵衛と、江戸っ子で粋な女芸人というまるで対照的な二人をハッキリと印象づけてこそ生きる踊りです。角兵衛の曲芸、新発田五万石(田舎節)〜女太夫の、こんなぶざまも、また嘘らしい(くどき)〜親兄弟に見放され(吉原の廓情景)〜〝オヤ、聞いたようだよ〟(セリフ)〜最後、越後の七不思議を、団扇太鼓でノリノリに踊るのが見せ場です。この様な江戸の日常風情を描いた踊りを〝風俗舞踊〟といいます。



■ 清元 「 子守 」  2004年





■清元「子守」:文政六年初演。越後から花のお江戸へ、子守奉公(食いぶちをへらしに)に出てきた田舎娘です。淋しさの中にも、元気に明るく生きる子守娘を〝清元〟ならではの酒脱なユーモアたっぷりでキッパリ表現します。最後の踊り地のあや棒の踊りが、これまた曲芸で面白い振りです。
■清元「子守」:文政六年初演。越後から花のお江戸へ、子守奉公(食いぶちをへらしに)に出てきた田舎娘です。淋しさの中にも、元気に明るく生きる子守娘を〝清元〟ならではの酒脱なユーモアたっぷりでキッパリ表現します。最後の踊り地のあや棒の踊りが、これまた曲芸で面白い振りです。

■ 清元 「 お夏 」  2006年

■清元「お夏」:大正三年初演。江戸時代の実話。当代きっての色男だった酒屋の跡取り息子〝清十郎〟は遊び人で、19歳のとき、とうとう勘当されます。勘当とは江戸時代の制度で、届けられると相続出来なくなるばかりか、持ち物も無く家から追い出される制度。行く当てもなく、姫路城下の商家に奉公し、そこで但馬屋の娘〝お夏〟と恋に落ちます。しかし、身分制度の激しい時代、但馬屋の主人・九右衛門は、将来の事を考え、二人の仲を裂くため、清十郎にひま(今では解雇)を出します。思い余ったあげく、清十郎は主人に刀を振り重傷を負わす事件となります。その後二人は運命に逆らい、手に手を取って駆け落ちしたものの、追っ手に捕えられ、清十郎は七百両の盗みの濡衣まで掛けられました。この騒動を知った当時の姫路城主・榊原忠次は、同じ様な事件が二度と起きないようにと、清十郎を打ち首の刑に処したのでした・・・。そして、残されたお夏は、悲しみのあまり狂乱してしまいました・・・。
■清元「お夏」:大正三年初演。江戸時代の実話。当代きっての色男だった酒屋の跡取り息子〝清十郎〟は遊び人で、19歳のとき、とうとう勘当されます。勘当とは江戸時代の制度で、届けられると相続出来なくなるばかりか、持ち物も無く家から追い出される制度。行く当てもなく、姫路城下の商家に奉公し、そこで但馬屋の娘〝お夏〟と恋に落ちます。しかし、身分制度の激しい時代、但馬屋の主人・九右衛門は、将来の事を考え、二人の仲を裂くため、清十郎にひま(今では解雇)を出します。思い余ったあげく、清十郎は主人に刀を振り重傷を負わす事件となります。その後二人は運命に逆らい、手に手を取って駆け落ちしたものの、追っ手に捕えられ、清十郎は七百両の盗みの濡衣まで掛けられました。この騒動を知った当時の姫路城主・榊原忠次は、同じ様な事件が二度と起きないようにと、清十郎を打ち首の刑に処したのでした・・・。そして、残されたお夏は、悲しみのあまり狂乱してしまいました・・・。

この曲は、井原西鶴「好色五人女」の小説をもとに〝坪内逍遥〟が自説の歌舞伎舞踊の変革を説き、新舞踊論化を実行し創られたものです。
この曲は、井原西鶴「好色五人女」の小説をもとに〝坪内逍遥〟が自説の歌舞伎舞踊の変革を説き、新舞踊論化を実行し創られたものです。

この舞踊は、気がふれた後のお夏を描いています。清十郎を忘れられないお夏は、髪を振り乱し、毎日毎日清十郎の幻を求め、裸足で城下をさまよい歩きます。菅笠をかぶった人を見ると、その人が清十郎に見えてしまい、つい追ってしまう・・・。ある時は清十郎の花嫁を夢にみたり、ある時は村の子供たちに、お夏の唄を歌えとはやされて田舎節で陽気に踊ってみせたり・・・。最後は狂い死にしてしまう芝居の演技が大変難しい舞踊です。お夏は当時16歳、清十郎は25歳という若さでした。現在、姫路城下の北「慶雲寺」には、二人の霊を慰める比翼塚がひっそりと祭られています。
この舞踊は、気がふれた後のお夏を描いています。清十郎を忘れられないお夏は、髪を振り乱し、毎日毎日清十郎の幻を求め、裸足で城下をさまよい歩きます。菅笠をかぶった人を見ると、その人が清十郎に見えてしまい、つい追ってしまう・・・。ある時は清十郎の花嫁を夢にみたり、ある時は村の子供たちに、お夏の唄を歌えとはやされて田舎節で陽気に踊ってみせたり・・・。最後は狂い死にしてしまう芝居の演技が大変難しい舞踊です。お夏は当時16歳、清十郎は25歳という若さでした。現在、姫路城下の北「慶雲寺」には、二人の霊を慰める比翼塚がひっそりと祭られています。


■ 長唄 「 操り三番叟 」  2008年




■長唄「操り三番叟」:嘉永六年初演。三番叟(さんばそう)は、日本に伝わる多くの芸能の中でも、大変重要な位置をしめている演目の一つです。猿楽・神楽・能・歌舞伎、全てにおいてその名を見ることが出来ます。この作品は〝操り〟という言葉からも分かるとうり、三番叟を糸の操りでお見せする面白い手法のものです。人形遣いである裃姿の後見が、人形箱から操り人形の三番叟を取り出し、糸を引き、笑っちゃうほど滑稽に踊らせ始めます。が、激しい動きのあまりグルグル回って、途中で糸がプッツリと切れてしまい、三番人形はクルクル、キューン、バタンと倒れてしまう、というところが見どころな演出。でも人形遣いは、それを慣れた手つきで直し、七五三の迫力あるリズムで足を踏み、種を蒔き、天下泰平、五穀豊穣を祈って踊らせます。ロック的リズミカルなテンポで、マリオネットとパントマイムを併せたような作品です。★人形遣いは、私の尊敬する大先輩「藤間章吾」さん。章吾さんのお陰で、舞台の格調、演出の面白さが引き立ち、何より本番は気持ち良く、2mフワリ〜と飛ぶことが出来ました(笑)!お客様からは、無いはずの糸が見えるようで、本当に人形の様だった!と好評頂きました。
■長唄「操り三番叟」:嘉永六年初演。三番叟(さんばそう)は、日本に伝わる多くの芸能の中でも、大変重要な位置をしめている演目の一つです。猿楽・神楽・能・歌舞伎、全てにおいてその名を見ることが出来ます。この作品は〝操り〟という言葉からも分かるとうり、三番叟を糸の操りでお見せする面白い手法のものです。人形遣いである裃姿の後見が、人形箱から操り人形の三番叟を取り出し、糸を引き、笑っちゃうほど滑稽に踊らせ始めます。が、激しい動きのあまりグルグル回って、途中で糸がプッツリと切れてしまい、三番人形はクルクル、キューン、バタンと倒れてしまう、というところが見どころな演出。でも人形遣いは、それを慣れた手つきで直し、七五三の迫力あるリズムで足を踏み、種を蒔き、天下泰平、五穀豊穣を祈って踊らせます。ロック的リズミカルなテンポで、マリオネットとパントマイムを併せたような作品です。★人形遣いは、私の尊敬する大先輩「藤間章吾」さん。章吾さんのお陰で、舞台の格調、演出の面白さが引き立ち、何より本番は気持ち良く、2mフワリ〜と飛ぶことが出来ました(笑)!お客様からは、無いはずの糸が見えるようで、本当に人形の様だった!と好評頂きました。

実は、この日の為に一年間、身体能力を高めるため、スポーツジムで秘かに身体を鍛えました。でもでも、重たい衣装を着け、いったい何kgあるのでしょう?5㌔?飛んだり跳ねたり約30分。はじめて衣装を着けた下浚い(リハーサルは一回こっきり)では、死ぬかと思いました!激しく踊った途中、糸がプツンと切れて、バタンと約2分ジッと寝るところ、あの激しい動きの後に急に静止すると心臓バクバクで辛いんです!一生忘れないホント死ぬかと思った、あのリハ!でも不思議と本番はアドレナリンが私の体から流出してくれたのか、そんなことも忘れて知らない間に本番は終わってしまっていました。お陰でこの体力勝負の演目を経験してから、やっぱり〝おどりは身体づくりが大事!〟とつくづく感じた演目。一生の課題です!
実は、この日の為に一年間、身体能力を高めるため、スポーツジムで秘かに身体を鍛えました。でもでも、重たい衣装を着け、いったい何kgあるのでしょう?5㌔?飛んだり跳ねたり約30分。はじめて衣装を着けた下浚い(リハーサルは一回こっきり)では、死ぬかと思いました!激しく踊った途中、糸がプツンと切れて、バタンと約2分ジッと寝るところ、あの激しい動きの後に急に静止すると心臓バクバクで辛いんです!一生忘れないホント死ぬかと思った、あのリハ!でも不思議と本番はアドレナリンが私の体から流出してくれたのか、そんなことも忘れて知らない間に本番は終わってしまっていました。お陰でこの体力勝負の演目を経験してから、やっぱり〝おどりは身体づくりが大事!〟とつくづく感じた演目。一生の課題です!


■ 清元 「 折紙 」  2013年













■清元「折紙」:香取仙之助作詞。四世清元梅吉作曲。まだ幼さの残る少女が、折り紙で遊ぶうちに、男雛女雛〜千羽鶴〜竜宮城の世界〜舟の船頭〜あやめの花〜兜の合戦〜奴さん〜など、どれも幼い日に遊んだ折り紙の幻想的な世界に入っていき、それぞれを一人で男になったり女になったりクルクル踊り分けていく趣向のこのおどり。「藤葉会」では初めての出し物で、今回、私の師匠・藤間秀嘉師が、私の為に特別に振り付けをくださいました。シンプル&モダン、でちょっと面白い〝秀嘉ワールド〟ならではの世界の中、私らしい作品作りを目指しました。
■清元「折紙」:香取仙之助作詞。四世清元梅吉作曲。まだ幼さの残る少女が、折り紙で遊ぶうちに、男雛女雛〜千羽鶴〜竜宮城の世界〜舟の船頭〜あやめの花〜兜の合戦〜奴さん〜など、どれも幼い日に遊んだ折り紙の幻想的な世界に入っていき、それぞれを一人で男になったり女になったりクルクル踊り分けていく趣向のこのおどり。「藤葉会」では初めての出し物で、今回、私の師匠・藤間秀嘉師が、私の為に特別に振り付けをくださいました。シンプル&モダン、でちょっと面白い〝秀嘉ワールド〟ならではの世界の中、私らしい作品作りを目指しました。


■ 長唄 「 二人椀久 」 2016年







■長唄「二人椀久」初演、江戸安永三年。立方、椀久:藤間穂澄さん、松山:藤間蘇女丸。江戸時代、豪商椀屋久兵衛が、大阪新町の傾城松山と深くなじみ、豪遊を尽くした果てに、親から勘当され、髻(もとどり)を切られ、座敷牢に閉じ込められてしまい、会えなくなった松山恋しさのあまり発狂してしまう、実話を舞踊劇にした物語です。牢を抜けてさまよい歩いたり、夢枕に立つ松山太夫と仲良く酒を酌み交わす様や、痴話げんかなど、、、廓で二人、甘く楽しかった日々を、踊りと芝居で表現させれいます。一種の狂乱物ですが、私くし演じる松山は、あくまでも舞台上夢の中の人物、幻ですので、最初から最後まで幻想的に、、、また廓という世界に身を置かねばならない儚さも、役に成りきって大切に演じました。最後は結ばれず、、、どの様な演出になるかは、観てのお楽しみといたしました。どうか、結ばれなかった二人が、今世こそは・・・という願いも込めてつとめさせて頂きました。
■長唄「二人椀久」初演、江戸安永三年。立方、椀久:藤間穂澄さん、松山:藤間蘇女丸。江戸時代、豪商椀屋久兵衛が、大阪新町の傾城松山と深くなじみ、豪遊を尽くした果てに、親から勘当され、髻(もとどり)を切られ、座敷牢に閉じ込められてしまい、会えなくなった松山恋しさのあまり発狂してしまう、実話を舞踊劇にした物語です。牢を抜けてさまよい歩いたり、夢枕に立つ松山太夫と仲良く酒を酌み交わす様や、痴話げんかなど、、、廓で二人、甘く楽しかった日々を、踊りと芝居で表現させれいます。一種の狂乱物ですが、私くし演じる松山は、あくまでも舞台上夢の中の人物、幻ですので、最初から最後まで幻想的に、、、また廓という世界に身を置かねばならない儚さも、役に成りきって大切に演じました。最後は結ばれず、、、どの様な演出になるかは、観てのお楽しみといたしました。どうか、結ばれなかった二人が、今世こそは・・・という願いも込めてつとめさせて頂きました。

★第二十八回 「藤葉会」藤間秀嘉先生 主催、国立劇場にて、
「二人椀久」傾城・松山、無事終わりました。
実はその後、宮崎の知り合いの神社へ巫女舞の御奉納〜熊本へ日舞出稽古開始〜
世田谷区とタイアップした〝日舞エクササイズ〟の立ち上げと、一息つく間もなく走り続けておりました。
やっと落ち着き我に返った頃、写真も出来上がりましたので、ご報告です。
改めて振り返り、舞台に立って初めて気付くこと、舞台に立ってこそ成長出来たことの重みを感じております。
正直まだまだ未熟だなあ…といつもの如く反省ばかりですが…
皆様に嬉しいメッセージを沢山お寄せ頂き、全ての皆様方に感謝の気持ちでいっぱいです。

今回は、一生に一度は絶対に踊りたいと思っておりました念願の大役でした。
お弟子さん同志で踊るのは、藤葉会二十八回目にして初めてだったこともあり、
秀嘉先生には、いつにも増して厳しく、きめ細やかで心のこもったご指導を頂きました。
気が狂うほど求愛される傾城の気高さの中の優しさとは、引き離された傾城松山が、
椀久の夢枕に立つ〝幻〟である儚い場景表現とは、、、涙を流すこともあったほど、、、
その一つ一つの教えは、私の血となり魂となったと思います!
また、こんな私を相方にご指名下さった大先輩、藤間穂澄さんにも、心より感謝申し上げます。
とても素敵な椀久様でした!!後輩を引き上げる器、私も見習いたいと思います。

その他、先生のお孫様「助六」、赤坂芸者衆三人による「連獅子」、皆さん素晴らしかったです!!
何より最後の、秀嘉先生&秀曄さんによる、ロック「曽根崎心中」はこの世の無常を踊りのアートで描いた演出、表現、圧巻な作品でした!!

ご多用な中にも拘りませず、沢山の皆様にお運び頂きまして、改めて心より感謝申し上げます。
これからも、喜びや悲しみ、笑いや祈り、舞踊で観て下さる皆様に楽しんで頂けますよう、
また、愛弟子達へ大切に伝えて行けますよう、より一層芸道一筋に精進して参ります所存です。
今後共、ご声援受け賜りましたら幸いです。
本当に有り難うございましたm(__)m  藤間蘇女丸
沢山の皆様のご来場、ご声援、誠にありがとうございました!!


◆ 銀座で〝舞妓〟修業時代(五年間)〜

■ 「舞妓」銀座店
■ 「舞妓」銀座店

◆実は昔、銀座で五年間、舞妓をしていました。踊りが好きで好きでたまらなかったからです。舞妓といっても京都の本物の舞妓ではありませんが・・・、
大和実業が経営する「舞妓」という銀座のクラブで、舞踊ショーをお見せしていました。
時代と共に、今はもう残念ながら閉店してしまいましたが、今の私が在るのは、このお店の経験も大きいです。
ママや振付師の先生、十人もの踊り子の皆さん、本当に素敵な方ばかりでした。その頃の写真です。本当にいい経験をさせて頂きました。

この頃、毎日自分で白塗りして、鬘と衣装を付け、一日四回、古典&モダンな舞踊ショーをお見せしていました。専属の振付けの先生が見えて、月二回どんどん演目も変わり、踊りが好きで好きでという踊り子ばかりでしたので、舞踊は本当に本格的でした。月に一回「粋人会」といって、投扇興大会や、幇間さんをお呼びして粋なお遊びの会も開催したり、外国のお客様も多かったので、その際は、お国をお聞きして〝国歌〟を流して歓迎したり、本当に素敵なお店でした。今はこの様なお店はどこにもありません。またこの様なお店が出来たらいいな・・・と常々思っております。
この頃、毎日自分で白塗りして、鬘と衣装を付け、一日四回、古典&モダンな舞踊ショーをお見せしていました。専属の振付けの先生が見えて、月二回どんどん演目も変わり、踊りが好きで好きでという踊り子ばかりでしたので、舞踊は本当に本格的でした。月に一回「粋人会」といって、投扇興大会や、幇間さんをお呼びして粋なお遊びの会も開催したり、外国のお客様も多かったので、その際は、お国をお聞きして〝国歌〟を流して歓迎したり、本当に素敵なお店でした。今はこの様なお店はどこにもありません。またこの様なお店が出来たらいいな・・・と常々思っております。

私は〝千代丸〟という源氏名でした。今、この時の〝ショーをお観せする〟というサービス精神が見事に生かされています。この時代があったからこそ、今が在るのだとつくづく感じます。このお店でご縁あり、変わることなく今も温かく応援くださっている皆様に、感謝と、恩返しの思いで、失われつつある日本の〝粋〟な世界も残して行きたいと頑張っております。
私は〝千代丸〟という源氏名でした。今、この時の〝ショーをお観せする〟というサービス精神が見事に生かされています。この時代があったからこそ、今が在るのだとつくづく感じます。このお店でご縁あり、変わることなく今も温かく応援くださっている皆様に、感謝と、恩返しの思いで、失われつつある日本の〝粋〟な世界も残して行きたいと頑張っております。





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